@SchizghoeBillyをフォロー ツイート ブログ 失業とiPhoneと悔恨の日々: 10月 2009

2009年10月21日水曜日

職業訓練校の選考試験を受けて来た&au新機種情報

今日は職業訓練学校(正確には独立行政法人雇用・能力開発機構東京センターが主催する専修学校等委託訓練)のセキュリティエンジニア養成科コースの選考試験及び面接を恵比寿まで行って受けて来た…
ハローワークの窓口から事前に参考にと東京都でやっている訓練学校の選考試験問題を渡され、窓口のおっさんも「義務教育卒業程度の数学と国語の学力が必要とされているみたいですよ〜多分これに準じた問題が出ると思いますよ〜」って言うので
三省堂で「中学数学の基本のところが24時間でマスター出来る本」/西口正(明日香出版社)
を買って病身を押して試験に備え今日を迎えたところが実際に出された問題は

厚生労働省の適性検査11項目から4項目

適性検査…就活の時流行ってた気がする…
確かに問題自体は義務教育並みかそれ以下だが、スピードに付いて行けんっもう頭が現役じゃないのかもなあ…

公文には昔通っていたが、教室の先生を泣かして追い出されたし。
けど先生も悪いと思うんだよなあ…
私は中学のときの成績は国語・英語の偏差値75は当たり前だったが、数学では29を取ったことがある。点取り問題の計算問題を解くのに試験時間をすべて費やし獲得した成績だったんだけど…。

公文の先生は私の数学の実力しか知らないからつい「あなたは知能が足りない子だと思ってたわ」と口を滑らしてしまったんですなあ…
あのころは血気盛んだったのでどう口論が進んで行ったのか、先生は半泣き、私は凱旋門をくぐる心持ちで帰路に付いた。
そして、もう教室に来るなと連絡が届いたのは何日後だったことやらやら。

それはともかくこのコースに受からないと、雇用保険給付を受けながらの職業訓練の最後のチャンスなんだけど、ぜってーヤバい。
すげー人数が受けに来てたし。講座の定員は21名なんだけど、試験会場に貼られていたスケジュール表を読んだら、1日当たり試験&面接3回でそれを2〜3日続ける予定になっていた。

ちなみに東京都立中央・城北職業能力開発センター(飯田橋)が開設している4月入校の講座は給付日数が10日足りない!!!!!
30(〜35)歳までなら1年コースが受けられる。学力試験は高校卒業程度。受験料1,700円・教材費115,200円
6ヶ月コースは年齢制限はない。
6年前に受けた時には希望したコースには落ちたけど第2志望のコースが定員に満たなかったとかでそこに潜り込めたのだった…
昨今の情勢ではまずそのようなラッキーは望めないが、職業訓練講座には色々な境遇の人間が集まって来ていて、まあ面白かった。


帰りに池袋のヨドバシだったかに寄ったら、auの2009年冬モデルが陳列してあった。店の人に聞いたけど発売時期も価格も情報が入って来ていないとのことだったが、
CASIO
SHARP
による撮影画素数12メガ以上の高機能機が投入されるようだ。
iPhone持ってるけど、新規じゃなかったから毎月の支払いの割高感が否めず、ホワイトプランだから相手もソフトバンクケータイじゃないと通話料がそのまま請求金額に跳ね返ってくるのがムカついてしょうがない。母親は現在tu-kaからの横滑りでauを使っているので、auで気に入った機種があればiPhoneとの2台持ちしようと狙っていたところだったのだ。

au新製品発表まではドコモのSH-06Aを狙っており、アキバで本体価格新規で29800円(当社指定オプション加入による・恐らくデビュー割期限2009年10月31日まで)ってのを購入する予定でいたんですがね〜。

今日は北千住にも寄ったところ、パワーポケットでもauデモ棚が出ており
”10月30日新機種発売”
とPOPが貼ってあった。

2009年9月9日、駅に近い方のパワポケで何を聞いても偉い人に電話で問い合わせて人の不安を煽る女性店員に接客されてiPhoneを買った。
「iPhone本体に留守電機能は付いてるんですが?留守番センターに問い合わせるんじゃなくて、本当に本体に録音機能が付いてるんですか?」と何遍も念を押して確認したが(通話料が発生するのがいやなので)、彼女は「大丈夫です」と答えるのみだった…。
帰りがけにその店員、「わたしこの店に来て3日目なので慣れなくてすいません」と自分をフォローしていたが、わたしがiPhoneを嫌いな理由の一つがこの本体留守電録音機能が付いていないところだ。ばかやろう。

2009年10月10日土曜日

2009年9月9日にiPhoneを始めて後悔したの前説〜失業したよ病院巡りだよ編〜

2009月6月をもってソフトバンクのスーパーボーナス割賦販売制度(当時)による2年間の支払いが終わり、それと同時にハードワークに伴う体調不良を理由に6年間続けた神田猿楽町でのフルタイムのアルバイトをクビになった。
実は会社からは契約を更新するのかしないのか、契約期限7月15日の半月前になっても沙汰が無くかった。恐らく解雇になるだろうとは予感していたが、6月の最後の週ごろから、こちらから我々アルバイトグループの担当者に契約について尋ねていたのである。

私が働いていたI社は創業30年ほどの創業社長が健在の中小企業で、情報処理の請負を主にやっていたようである。私がクビになる何年か前に息子がいきなり専務待遇で入社し、記念メダル販売だのネット通販に手を染め出した。勤務中にカートレースに出場していたとかいないとか噂を聞いたが真偽のほどは風の中〜〜〜
最初に面接と筆記試験に通り雇用契約書を見たとき、目を疑った。会社側の意向は
”1年づつの契約で、最低3年は働いてもらいたい”
と言っていたのに、雇用保険に入っていなかったのである。後で聞いた話だが、私の前からアルバイトをやっていた人たちは疑問に思わず(なのか?)何年もその条件で働かされていたそうだ。
ヤバい!!!と思ったが「どうしても入りたいなら手続きしますが…」と言われ「ぜひそうして下さい」と念を押し、契約書にサインした。

あれから6年余り…仕事の量が増えたりして私の後にも2人アルバイトを増強した時代もあったが…
企業向けマーケティングリサーチのためのデータベース作成を請け負う業務だったので景気の影響をモロに受け、発注先の企業もこの事業をリストラしたらしく業務に詳しかった担当者が移動したり〜事業本部自体が東京から移転したり〜(バイトにハッキリとした情報は回って来ない)一方こちら側の担当者も殆ど業務を知らない人間に代わってしまったのだった。
発注する方も受注する方も内容をよく理解しないままなもんだから、業務の方針を知らされないまま仕事をさせられる我々アルバイトはそいつらの無茶振りにかなり消耗していたのだった…

そんななかで体調を崩して行ったこの私。
明らかに変質且つ減少して行く仕事内容と業務の内容がわかってない上からの数字のみのプレッシャーによる不安に加え、身内の死(92歳)や飼っている犬たちの病死(13歳?)やら若くしての原因不明の衰弱死(1年半くらい)をきっかけに頭痛〜肩凝り〜右腕から指先の痺れ・冷え性でもないのに異常に寒さを感じる(特にはらわた辺りの冷感)などの身体症状が現れ始め、家族病の甲状腺異常発症に怯え(バセドー病・橋本病などの異常一般)ネイチャーメイドのビタミンBコンプレックスを1日15錠以上、バファリンは1日20錠、それでも動悸と手足の裏の発汗が治まらず睡眠改善剤まで服用するようになっていたのだった…。

ああ、そういえばそうだったんだなあ。6月までの自分って…自分ではあまり記憶が無いのですよ。
前置きが長くなったが、6月最後の週辺りの契約更新の有無について担当者に訪ねようとしていた自分は、契約延長なしだった場合その会社の5階の非常階段から飛び降りる予定を立てていたのだった…やっぱしシラフでは怖いので睡眠改善剤を40錠ほど机の引き出しに忍ばせて準備をしていたのだった。
2009年6月26日金曜日、この日担当者の返答いかんによって水道橋近くの雑居ビル5階から投身自殺があるはずだったのだが…

この日身内に不幸があったとかで担当者が出社して来なかったのだった。

そして月曜日6月29日、午後に会議室に呼び出され7月15日いっぱいでの解雇を言い渡されたのだった。
その時には13日ほど残っていた有給の消化が頭の大部分を占めていた。6月30日の火曜日まで勤務すると告げ(仕事のサイクルが一週間単位で火曜日が締め日だったからである)、11日間の有給ゲットにニヤリとし、7月1日からの病院巡りとハローワーク通いが始まったのだった。

2009年10月10日現在、結論から言うと体調は最悪を脱してはいるが、原因はわからず。
叔母曰く「病院で全部直してくれるなんて思っちゃだめよっ」
この叔母は戦後まだ知られていなかった偏頭痛に長年苦しみ、甲状腺異常に悩まされ、神経痛やら腫瘍やらを病み、手術はメスが入っていないのは頭ぐらいなもんだろうってほどの病持ちである。若い頃から方々の病院を網羅し民間療法を試しつつも仕事にも家事にも手を抜かずあまつさえ他人の世話まで買って出るというモノスゴイ人物でである。体質は兄である私の父親に似ているようだが、立ち向かい方が違う。5時に家をでて慶応大学付属病院で1日何科も回り、11時には家に帰ってくる(!!!)
現在は漢方と鍼で落ち着かせているそうで、私にも鍼を勧めてくれたのだった。

私の場合、医者が言うには数値からいうと病気とまでは言えないレベルだそうである。
7月1日に近所のK病院の脳神経外科にかかったがMRIに異常はなく、診察で上記のような経緯で疲れまして飛び降りる予定を立てていたんですがと言ったら(自分にはこの頃の記憶はあまり無い)心療内科への紹介状を書いてくれた。しかし心療内科はバッタもんが多いので慎重に病院を選び、結局帝京大学医学部付属病院に連絡を入れたら、診察の予約は10月20日だそうである(その間に自殺してたらどうすんだよぅ)。
ところでK病院では脳神経外科にかかった後どうした経緯かその日のうちに整形外科にもかかっており首のMRIを撮っていた(しつこいようだが記憶が薄い)。
その結果、首の骨の老化が見つかった。老化というのは持って回った言い方だと思うが、骨の変形の仕方が老化状であり、それが年齢に不相応だということらしい。
顕著なヘルニアがある訳でもなく骨棘も見られるが明らかに神経に障っているとも言えないということで、整形外科でも大学病院の脳神経内科への紹介状を書かれ(前記の脳神経外科でもそうだったが、今は特にどの病院に行けとも指示されないらしい)結局父親が通っている東京医科歯科大学病院に行くことにした。
父親は常日頃から腰が痛いと訴えており(その割にそれまで深い治療も節制もして来なかったが)、近所のT病院で脊柱管狭窄症と診断され手術の日程も決まっていたのだが当日血圧が上がり過ぎ、危険は冒せないので取り止めになっていたのだった。
その頃母親がテレビだか雑誌だかで”東京医科歯科大学医学部附属病院にいい先生がいるらしい”との情報を得て受診したら、脊柱管狭窄症でもあるけれども、馬尾神経に脂肪腫が出来る希有な症例だとわかったのだそうだ。(ネットで調べてみたけど家畜の新生児の症例ばっかしだった…)
幸い脂肪腫は良性だったが、馬尾神経はその名の通り馬の尻尾の毛のように脊髄から各神経が分かれているところなので手術で切除するのは危険だと医者が断ったそうだ。癌ではないのでペインクリニックも本腰を入れてくれないらしく、第一痛みは数値で計れないから先生の成績にも反映しにくいから(←推測)ということで経過観察という名の放置プレイ…
かくて父は元々の酒浸り+睡眠改善剤やら睡眠導入剤やらを個人の判断で服用し、失禁など奇行に走っている。
「1日のうち数時間でも痛みがとれるってのがどんだけ楽か他人にはわかんねえんだよ!!!」
とはシラフである時の彼の主張であるが、故中川昭一氏のニュースを胸に刻んでもらいたい。実際睡眠時無呼吸はほぼ毎日のことで、家族には大変なストレスである。気になって眠れない。実際飲み過ぎて外で寝ていたのが帰って来たとき眼が異常に真っ赤で目医者に行ったら角膜に傷がついていたとか、冬の夜飲んで帰って来て床の上でそのままイビキと無呼吸を繰り返すもんだから、傍らでストーブを付けイビキが止まるとビビって寝てられなくて見に行ってみるとか私の記憶にあるだけでもかなりな酒浸り人生である。
(あ、私の不眠症の発端はこんなところにあったのか!!!っていうか、不眠が当たり前過ぎてどの病院でも言ってなかった!!!!!)
彼は戦前生まれで36歳で結婚したのでそれまでの飲み仲間のおっさんどもとの気ままな生活が所帯を持っても抜けず、ウチは貧乏であった。私の記憶にある住まいは亀有に近いボロい貸し家で、ネズミもノミもダニもいた。恐らくシラミも居たんじゃなかろうか。(そんな環境に育ったのに私も家族も花粉症になっている!!!過度な清潔=花粉症の原因説は嘘に違いない)
そしてまた彼は彼の父親(私の祖父)が53歳で脳卒中で死んだせいで、常日頃から自分も53歳で死ぬと周囲の人間全員にくどくどと言い続けていた。54歳になるまで…
今では「俺もあと何年保つかなあ〜」を枕詞に、周囲にストレスをまき散らし続けている。
飲み仲間(敢えて飲み友達ではない)も自堕落さと年齢的な理由で泉下に去り、孤独な老人となった今ではいたしかたないとも言えなくもないが、私が生まれる前からのその愚痴がボディーブローとなって、周囲の人間に対し生活する距離が近いほど悪影響を与えているに違いない。
私の祖父は、面識は無いが結構勝手な人生を送っていたようである。
聞いた話では酒を喰らうのはもちろんのこと、根岸短歌会に参加してみたり、町内でかなり早く電話を引いてみたり、ハーレーだのシトロエンに乗ってみたり、その一方で結構人に騙されやすかったらしく詐欺でかなりな大金を盗られたりしたらしい。
その子供たち4人のうち酒浸りでないのは長女、つまり前述の私の叔母だけであり、彼女が家長なのである。その証拠に兄弟のうち3家族は父親の職業を継いだが、戦後浅草から移転して再開した父親の職業の施設の住所に住んでいるのは(鉄道路線の工事の都合で何メートルかは移動しているが)叔母夫婦なのである。
ついでだから祖母の思い出も辿ってみよう。

病多き体質と人の話を聞かずくどくどと自分の言い分をお経のように並べ立てるのは私の父親にそっくりである。(祖母は92で他界した。我が父親も推して知るべしだと思うが…)
明治45年多分麻布生まれ。彼女の祖父は会津出身で階級は知らないが侍だそうである。渡辺綱の子孫だと伝えられていたそうだ。祖母は戊辰戦争で亡くなったとか(ちょっとあやふや)祖父自身も鉄砲で片目を失ったそうだ。会津の殿様松平容保公が江戸へ下るのに付いて一緒に下り、その時何人いたのかわからないが子供をつれていた。少なくとも娘が一人いて、その人が私の祖母の母親となった。彼女と結婚したのは元高遠藩の藩士だったそうだが早くに亡くなり、出戻ったのか何かして、父親と一緒に麻布の長屋で暮らしていたそうだ。その長屋には元薩摩藩士も住んでいたそうである。元会津藩士の祖父とは眼を合わせてもお互いに頷き合うだけで何かを語ることも無く静かに暮らしていたそうである。3人姉弟のうち祖母は遠い親戚の柳橋の芸者おまさ姉さんのお付き奉公として可愛がられたそうである。弟は昇といい、おまさ姉さんの旦那市川何とかって歌舞伎役者に弟子入りし小昇と名乗っていた時期もあったそうだが徴兵され、帰って来てすぐ結核で亡くなったそうな。
若い頃、祖母が弟さんと歩いていた時に他の人から女中さん扱いされたのがもの凄く誇らしかったとゆっていた…男前だったそうである。
ちなみに祖父の方の先祖は和田義盛と伝えられている。

私の首の話に戻るが、東京医科歯科大学病院の脳神経内科での診察は初診だったため、施設が開く7時前に受付に行き順番を待つことになった。
受付が開始するのは8:30からだが初診の人はその前に保険証とあれば紹介状を備え付けのケースにいれポストのような箱に入れて順番を確保するのだ。私が窓口に付いたのは6:53くらいだったが、9番目だった。
医師が紹介状を読み、小さい三角のトンカチみたいなので何カ所か関節を小突いた後一旦血液検査室に行って血液検査と尿検査を行い、その日のうちに結果が出てるのでもう一度診察室に呼ばれるまで待って、診察室に入ると先生が紹介状の返事をもの凄い速さでWordで入力しながら異常ありませんでした〜とちゃらっと診断をもらい、会計を済ませ外に出た時は12時ちょっと前くらいだった。
その後K病院に東京医科歯科大学病院の先生が書いた返事を持って行った後、今度は”早老症”の疑いがあるかもといってまたこんどは内分泌内科へ紹介状書いてよこした。早期老化症には、幼年期からから猛スピードで老化が始まる有名なプロジェリア症候群の他に、成人期から発症するものもあるそうである。
再び東京医科歯科大学病院に行ったのだが、診察券を持っている人は(どの科でも共通)直接その科の受付に行くのだが…
内分泌内科、尋常じゃない混みようだった。この日は10時に受付して、診察が1時。「今日は本当にお待たせしました」とAガールっぽい先生が力を入れて挨拶してきたから本当に混んでいたんだろう。
といって診察でやることは紹介状を読んで、血液検査を指示しておしまいだが。
待ち時間の間、気持ち悪くなって帰ろうと何度思ったことか…具合が悪いから病院に行くんだろーがっ
内分泌内科の血液検査の結果は結構かかるそうで、3週間後に予約をとらされ、会計が(これもまた時間がかかった)、一番気温の暑い時間帯に外へ放り出されたのだった。

まだクビになる前、土曜日に隣の順天堂の総合診療科にも行ったことがある。
東京医科歯科大学病院は携帯電話の使用に付いてあまりうるさくない。しかし順天堂大学医学部附属順天堂医院は結構うるさかった。というよりうるさいやつがいた。
ただでさえ混む総合診療科、土曜日、とんでもない待ち時間である。ケータイをオフラインにしてワンセグ録画し溜めた(会社に通っている時は気持ち的に観る余裕がなかった)きらきらアフロを観ていたら、私服のおばさんが「あなた病院内は携帯は禁止ですよ」「でもこれ電波切ってありますから」といっても理解出来なかったのか、しつこかった。
待合室の奥ではちょんまげつけた力士がソファーに寝転んでケータイいじってたのにっ
そいつを何とかしてから文句言いに来いってんだっ

ところで実際のところ病院でのオフラインのケータイはOKではないのか?真実が知りたい。
”iPhoneなら文句言われなさそうだよな…iPodTouchとちょっと見分けつかないし…”

両手で持つ長方形の物体…ゲーム類は全くやらず、両手で持って機械を操作する習慣が無い私が、”iPhone?”と考えるようになったきっかけであった。