@SchizghoeBillyをフォロー ツイート ブログ 失業とiPhoneと悔恨の日々: #鬱 ぶやき 親子三代の社会適合性欠如の背景分析と考察・展望台デッキ

2011年11月13日日曜日

#鬱 ぶやき 親子三代の社会適合性欠如の背景分析と考察・展望台デッキ

私は思った事を言葉に表現しないではいられない。多少遠慮はするが、それらを喋ることに意義があると信じている節がある。
実は父親も全く同じで、朝起きて来ると、1人で喋り始める。相槌があろうがなかろうがお構いなしである。
話題は政治や犯罪など新聞程度の同じ話題を繰り返したり思い付いた別の話題に次々飛ぶ事もある。
しかし、譫妄ではなさそうなので、一度父親に尋ねてみた。「何を何故今喋る必要があるのか?」と。
答えは、大した意味は無い、目に付いた新聞の話題を論じているだけだと。別段会話するつもりも無いと。
祖母もそうだった。記憶にある祖母はいつも何か1人で喋っていて、話し掛ければ会話にはなるのだか、何時の間にかまた独り言に戻ってしまう。
明らかな病気ではないようだか、問題は、この独り言癖が親子三代この私にまで受け継がれ、私の代になってとうとうクビを切られるという実害が出てしまった事だ。
そこで私は、持てる情報を元に三代前からの困った性癖を客観視して見る事にした。
祖母は会津藩士の孫で、会津戦争で曽祖母は自害、曽祖父は片目を鉄砲で失ったそうだ。明治になってから、松平容保公の東京行に同行し親子で東京にやって来た。父一人と子供達で麻布の長屋に住む事になった。長女の渡辺キノさんが、後の私の祖母の母親、春日キノさんとなる。同じ長屋には旧薩摩藩士が住んでいたが、図らずも賊軍と呼ばれる身となった者同士だからなのか、お互い目を合わせるだけで何かを語ることはなかったそうだ。
ところで渡辺家は渡辺綱を先祖としており、綱に関して様々な言い伝えがあったそうだ。その中でも特に厳格に守られていたのが、正月に松の木を飾ってはならない事であった。
あくまでこの家に伝わる伝承だが、渡辺綱は一条戻橋で茨木童子の腕を斬り落とし持ち帰るが、伯母の姿に化けた鬼に腕を持ち去られてしまう。
この時鬼は松の木を伝って飛んで逃げた、との伝承が渡辺家では伝えられているので、正月飾りに限らず、松を忌む様になった。
以来渡辺家並びに親戚は、正月に松を飾る事を固く謹んでいたのである。
それは明治・大正・昭和に時代は移っても守られて来たのであった。

しかし戦後、根岸の家を戦後のバラックに奪われ、知り合いを頼って葛飾区の青砥に新たに居を構えた時、祖父はどうせならと立派な門松をたててしまった。
祖父は、茨城県潮来に和田館という屋号が残っているが、この和田氏の子孫で、やはり士族である。
太田道灌の江戸入りに伴い駆逐された関東武士団の一派であった。
その際氏名を変えているので、現在の苗字は和田ではないが、和田館・和田荘にその名を留めている。

話は戻るが、戦後財産や家系図なと古文書を失ったとは言え、葛飾区青砥に再び家を再興出来たのを言祝ぎ、彼は正月に門松を立ててしまった。
そして我が祖父はその年に脳出血で倒れ、帰らぬ人となった。享年53歳である。

以来渡辺の血統の人間及びその家族はは松飾りをしない。正月マニアである私には痛恨の極みである。

春日氏は長野の高遠藩士の子孫だそうである。
春日キノさんの主人は早くに亡くなっており、結局実家の麻布の長屋に帰って来た。キノさんの子供達3人は旧会津藩士の祖父と暮らす事になった。
あの時代、生活に余裕は無かったが、周りの人は皆んな人情があったと祖母は繰り返し話していた。

この繰り返し、場合によっては相手がいなくても喋り続ける、という性格傾向は、その子供達、そのまた子供達にも脈々と伝えられて行った。
社会生活を送るに当たっては、諸刃の剣とも言える性質であった。
遠縁に芸者をやっている女性がいた。柳橋で売れていたお政姐さんで、この人には本当に世話になったらしい。
キノさんの子供達の、姉達を見習いとして自分の座敷に住まわせ身の回りの世話をさせる代わりに必要な分の給金をくれた。
と言っても売れっ子芸者にはいくらでも付き人がおり、実質預かって育ててくれていたのであり、学校にも行かせてくれていた。
弟は、お政姐さんの旦那が市川家の歌舞伎役者だったこともあるが、とにかく男前だった(当時の人の証言)ということで、役者の弟子にしてもらったのだった。戸籍に士族と書いてある家の子供がなぜ役者に?と思うのだが、当時は多分今より自由な気風が溢れていたのではなかろうか、と想像する以外ない。
それに、姉は男前の弟が自慢で仕方が無かったらしく、ある日池の端を二人で歩いていたら、弟の女中さんに間違えられたそうであるが、却ってそれをいつまでも自慢にしていたくらいだった。
お政姐さんの援助もあって学校を卒業した祖母は、結婚する前に色々な仕事をしていたそうだ。
帝国ホテルの中で働いていたこともあったらしい。
そしてある研究所で働いていた時に(ラボラトリンと呼ばれていたそうだ)、その研究所の研究員と結婚したのである。
結婚してから祖母は4人の子供を産んだのだが、お産の度に産後の肥立ちが悪かったのか、谷中の方にあった、患者1人に看護婦が1人付くといういくらかかるのか分からない産婦人科病院にしょっ中入院していた。
しかも入院すると幻聴が聞こえるとか騒いだり、一晩中ブツブツ喋っていたり、奇行が多かった。終いにはその時小学生だった自分の娘に病院に付いていてくれるよう言い出し、いくら周りが宥めてもいう事をきかなかった。結局娘は学校が終わると病院に帰宅し、予習や宿題をやって、夜になると祖母のベッドの横にベットを置いて寝る。翌日になると病院から登校する、という事をさせていた。
こんな状態なので当然子育ては難しいく、親戚や親しい知り合いに頼むことになる。祖母と子供達4人の微妙な関係性はこれに端を発している。
世話を任される方の大人も、自分の子供じゃないから少しは遠慮があるので甘やかす。畢竟子供達は、それぞれ世話になった親戚や知人に懐くようになる。
詳しい経緯は分からないのだか、祖母は複数の宗教団体に入信し、相当カネを使ったらしい。
祖父は自営業を経営してしたが、53歳で脳卒中で亡くなった。
幸い後継がいたので、祖母は益々宗教にのめり込む。向こうではカネを落としてくれる上客なので、祖母が喋りまくることに何でも頷いてくれる。
恐らくこうやって思った事を全て言葉にするという精神構造に拍車が掛かっていったのではないだろうか。
そして、父親もまた先祖から受け継いだ性質の上に、こうした成長の環境が加わって、あの人格と性癖が形成されたのであろう。
こういった背景がこの私を作り上げていた。
しかし背景はあくまで背景である。私の人生は私しか歩めないのだ。

と、人生の展望デッキにたち(スカイツリー当たりでひとつ)、展望するのであった。

0 件のコメント:

コメントを投稿